空きコマの暇つぶし

なんでも問います、書きます

受動的であることは大事よ?

 

「あなたがやりたいことはなんですか?」

 

こんな言葉をよく聞く。

就活でも、イベントでも、講演会でも、自己啓発系のワイワイ系の本でもなんでも。

そして、やりたいことをやることが自由だー!なんて言っちゃってる。

 

「アクティブラーニング(主体的て対話的で深い学び)が必要だ」

 

こんな言葉もよく聞く。

教育業界の人たちは「やることを自分で決めさせる(orやりたいことをやらせること)で意志決定能力がつくんだ」とか言っちゃってる。

 

上の人たちの言い分はこうだ。

・やりたいことをやれば、自由らしい

・やりたいを自分で決めれば、意志決定能力が上がるらしい(つまり主体的になれる?)

 

 

本当にそうですか?と言いたい。

 

 

そもそも自由とは

選択における自由の意味が分かりやすいんだけど、aとbの選択肢がありそれを自由に選べることが「自由」なのではなく、新しくcという選択肢を作ることができることが自由なんだと思う。

つまり、自分が無意識的につくっている制約や条件づけ、思考の枠を取っ払って、世界を拡げていくことで初めて得られるものだと考える。

だとすると、やりたいことをやってる人間は、やりたいことしかやれなくなることで、どんどん狭い世界に行くことになり自然と不自由になるのではないか。

 

では、「やりたくないこともやればいいのか」というと、そういうわけじゃなくて、もっと柔軟にいけばいいんじゃないの?って思う。

人間は、二元論的な構図を理解すると呑み込みやすい一方で、思考が停止するから柔軟にその時その時考えればいい。

 

 

 

そして、2つ目の「やることを自分で決めていけば意志決定能力が上がる」は本当にそうなのだろうか?

上の話を繰り返すなら、やることを自分で決めてしまうことは、どんどん自分の世界を狭くしてしまってることにはならないか?と思う。やりたいことを自分で決めていくことだけが意志決定なのだとしたら、その能力は養われるかもしれないが、意志決定していった先が世界を狭くすることなのだとしたら、それは世の中を生きづらくするだけだ。

 

一方、意志決定能力が、思考の枠を取っ払って、世界を拡げ、その上で議論をし、意志決定をする能力なのだとしたら

僕が思うのは

「自分で決めることが重要なのではなく、自分達で決めていくことが重要だ」

ということだ。

人は1人で生きてきたわけじゃない。必ず他者の存在があなたに影響を与えている。

もし後者のいう意志決定能力を養うのであれば、また本当の自由を求めるのであれば、自分だけで判断する力に加え、他者からの判断に対して柔軟に取り込む力も必要だと思う。つまり受動的になることも必要だということだ。

 

 

最後に。

 

教育界隈ではアクティブラーニングがよく言われている。しかし、同時に言葉ばかりが先行していると危機感も感じる。

「能動的な学習が良い」と感じることは非常に大切だが、ついそちらに目がいき過ぎると「受動的な学習が良くない」という二元論的な構図にしてしまいがちである。

 

でも受動的な学習ができることで、自分の視野が広がっていく側面もあるはずだ。

 

他者の存在が必要なように、受動的になることは決して悪いことじゃない。

 

尊敬するとある先生に影響され、今日はこれを書いてみようと思った。

終わりー

UEDA LABへ行きました。

   先日、教育関係の先輩方3人とぼくで、京都にある同志社女子大へ足を運びました。

f:id:ya-328-gamgam:20180706112220j:image

  そこには、上田信行先生率いるUEDA LABというものがあります。(上田先生に関して詳しくはこちらへ💁‍♂️https://www.ashita-lab.jp/activities/5403/ )

  

  今回のlabでの活動は、企業に対してのワークショップ案件2つの進捗と方向性を固めるという作業でした。

 

【ゼミ活動の中で感じたこと】

①まず活動がしやすい。

  ここで言う活動のしやすさとは大きく分けて2つの意味があって、ひとつは人が活動する上で「〇〇がないから今日はできない」みたいな制限を作らないという意味で、最低限度の最高な環境が整ってるということ。そしてもうひとつは、活動以外つまり自由な時間とゼミ活動で区切りがないという意味で、遊びながら仕事をし、仕事をしながら遊んでいるような感覚だったということでした。

f:id:ya-328-gamgam:20180706112135j:image
f:id:ya-328-gamgam:20180706112141j:image

②ミッションに対するスタンス

彼女らのミッションは、とある大手企業にワークショップを開催し、モチベーションや表現力に可能性を持ってもらうというようなものでした(詳しくは分からない)。

ミッションとは一般的に、自分達が達成すべき目標という意味が多く、自分達の使命、責任感が伴うようなもの。同時に使役系になりやすく、一方的になりやすい。

しかし、彼女らのミッションに対するスタンスは面白かったです。

彼女らは「独自のワークショップを提供し、クライアントの現状を〇〇(理想の形)にさせる」というスタンスではなく、「私たちがやってきたワークショップは皆さんの生活にも役立つと思うので、一緒にやってみませんか?一緒に問いませんか?」というスタンスでした。

 

前者と後者で違うのは、提供ではなく提案だということ。そして最後まで寄り添っていくという温かい責任感を含んでいたように感じました。

f:id:ya-328-gamgam:20180709053807j:image

③ワークショップは、遊びだ。

 

そう、ワークショップとは高次の遊び。

誰かが誰かに提供するものではなく、みんなで分かち合おうとする営み。

自分達が「これめっちゃいい」と思ったものを共有し、体験してもらって更に深めていくものだと思います。

 

ワークショップとは、僕たちが小学生のころの鬼ごっこによく似ているんじゃないかな。

 

『仲間内で鬼ごっこをしていた少年たちは、いつもの鬼ごっこではもう楽しくないと思った。そこである子が「触られたら凍る」というルール付けをしてみた。そして「仲間が触れば解凍する」というルールも。

すると、鬼にはただ捕まえるだけの役割だけでなく、捕まえた後も気にしなきゃいけないという役割が増え、難易度が増していく。ゲームに複雑性が増し、より面白さ、奥深さが出てくる。そこでしか得ることができない経験がある。

そしてこれを「しめた!これは楽しいぞ!」と考えた子が他の子に勧めてみる。そしてそれを共有し、体験させてみる。』というように。。。

 

もちろん本来のワークショップはもっと学びに特化したものなのだが、基本は、「遊びの中から非日常をつくる」なんじゃないかなと思います。

 

そして、私たちは、そこから本気で思考した先に、新しい視点と気づきを得ることができるんだと思いました。

 

ありがとうございました。

 

f:id:ya-328-gamgam:20180709053856j:image
f:id:ya-328-gamgam:20180709053913j:image

 

就職活動について。

ただいま新幹線の中で書いています。

たくです。

どーも。

 

最近は就活そろそろ終わりそうなので、余裕がかなり出てきました。

 

教員養成系大学で、就職希望がここらへん(特に外資コンサル、シンクタンク系、日系コンサル、IT系、人材系、教育系)の人はもしよかったら相談してください。ベンチャー界隈も相談乗れます。

 

特にコンサル、ベンチャーはうちのキャリ支ではほとんど情報がないですが、意識がうんこ高い人たち💩がうじゃうじゃいる業界です。また夏からサマーインターンをやってる所も多い(コンサル系は比較的早い)ので調べてみてください。

 

 

今日は就活について僕の個人的な考えをぶちまけます。

 

アウトラインはこんな感じ

 

1.就職活動とは

2.新卒における就職活動とは

3.多くの学生における最大イベントなわけ

4.大切な事

5.注意すべきポイント

6.まとめ

 

 

1.就職活動とは

 

 一般的に就職活動って、自分が企業に入るために選考や面接して、最終的には働く場所を決めるって作業ですな。


2.新卒における就職活動とは

 

就職活動といっても、「僕は得意とするスキルなんてこれっぽっちもありまてん」なんて学生が沢山いるんじゃないかなって思う。でもたふんある程度は安心してよいと思う。

なぜなら外資系とベンチャー系は別だけど、日系企業は基本的に、学生に能力はそんなに求めてない。ここでいう能力っていうのは、マネジメントの能力や営業、経営の能力みたいなところね。語学力とかはあるに越したことはないで。

何故なら社会人のみんなは「たかが学生のスキルなんてちっぽけなものやろう」と思っていることが多いから。

それよりもこの子は伸び代があるかな?頑張れるかな?みたいなところを見てる(日本の企業らしい)

つまり、新卒の就職活動に挑んでいく大学生の僕たちにとって大事なのは「伸び代」じゃないかなーって。

いやでもこれは割とあって選考や面接を通じて、あなたがいかに伸び代のある人なのかってのを見てる会社は多いとおもう。

具体的には「この人は日常的に目的意識持ってるのかな?」「常にPDCAを回せる子かな?」「人の話をちゃんと聴く人かな?」なんて考えてんじゃないかな。知らんけど。

 

3.多くの学生における最大イベントなわけ

 

何故なら人生のキャリアアップの最初の一歩目だからじゃないかなとおもう。

なんで一歩目が大事なのかというと、納得できない会社で働いたらそのあとは、中途採用って選択肢もあるけど、スキルが必要になってくるって聞くしね(いくら転職市場といっても)。あとせっかくだし学生のうちに人生について考える時間をとるほうがいいってことかな、社会人になるとそんか余裕ないだろうし。

 

 

4.大切なこと

大切にしたい姿勢って意味で、自分が肌で感じたことは、自分が価値を創造してやるんだという姿勢だと思う。

ぼく個人の話だけど、会社に養われる姿勢は全くなくて、むしろ自分自身が利益を創り出していこうと意気込んでいるので、基本的に自分が納得するサービスを行なっている会社、会社内の仕事に対する雰囲気がよい、一つの業界の専門性があり、且つ、ある職種においてスペシャリストになれる場所ならよいと考えている。


5.注意すべきポイント

就職活動をしない!ってことは大事かもしれないと思った。

要は、就職活動の支援を行なってる某大手とかその他もろもろの人材系の会社ね。彼らはビジネスの種として学生を考えているので、本当に学生の将来を考えて動けてるかどうかを見極める必要があるかもってこと。学生が不安に思うところはビジネスチャンスやしね、不安を作ってるとしたら怖いね、あんまいえない笑。

何かを売りたかったら需要を作らなきゃダメだもんね。

まぁあまりいらない情報に振り回されなければ大丈夫やとおもう、

 

面接に関しては

面接で緊張しそうなら、パンツを脱いでいけばいい。

「こんな真面目に面接してるけど、おれノーパンわら」って思ってたら緊張しなくなるでオススメ(おれやったことないけどな)

 


6.まとめ

教員採用試験が控えてて、企業就職無理だなって人もいるかもしれないけど、早めに選考が行える企業もあるので、早めにとっておくこともオススメ!

なんなら大学1年から選考しますよって会社もちらほらあるから情報を収集することが大事だと思いました。

 

不安なことは気軽に相談してください。

以上!

《自信》とは自分の弱さを愛せることだと思う。

  1. 高校時代のわし
  2. 試合に勝てない日々
  3. 強くなって自信をつけるため頑張った
  4. 気づいた《自信》の正体
  5. 「人一倍練習すること」「誰よりも強いこと」→自信?
  6. ぼくの思う《自信》とは。
  7. 就職活動においてもいえるんじゃね?
  8. でもなんかやっぱり人と比べたくなるよね〜。
  9. これからの生き方
  10. まとめ

 

 

 1.高校時代のぼく

 

高校へ入学した春、ぼくは剣道部に所属した。

 

入部した理由は非常にシンプルで、同じ学年で入学したやつらの影響だった。

当時、小学生、中学生の頃から名を馳せてたバケモノみたいなやつらが、同じ高校に入学したからだ。

僕はそんなやつらと剣道をして、めちゃめちゃ強くなりたいと思った。

まさに、ドッキドキの一年生状態だった。入学当初、お乳の鼓...いや間違えた、胸の鼓動が高鳴りまくっていた。

 

 2.試合に勝てない日々

しかし、当時何も実績を残してなかったぼくは、めちゃ強い先輩や同期に圧倒されながら、次第にもがき苦しむようになっていった(部活自体はアホほど楽しかったけど)。

入学してまもなくしてもなかなか勝てない時期が続いた。

 

ある時、先生がやってきてこういってきた。

「もっと《自信》を持て」

実際、練習試合では、スピードや技の正確さは負けない節があった。でも自信がないせいで気合いで押されて負けることがしばしばあった。


‪しかし、ぼくは《自信》っていうのをいかにしてつければいいのかさっぱりわからなかった。

人一倍練習すればいいのか?たくさん本を読めばいいのか?さっぱりのぺっぺらぺーだった。

 

3.自信をつけるために、人一倍練習した、が。

考えるのが好きじゃなかったぼくはまぁとりあえず何かしらやることにした。

 

高校二年生の夏らへんから、一時間ほどかかる通学時間なんて関係なしに毎朝7時には道場へ行き、朝練をしまくった(幸い鍵は🗝道場の玄関に隠してあるから自由に出入りができた)。

部活が終わって家に帰ると家の駐車場の空きスペースで素振りをひたすら行ったし、毎日ビデオを見て自分の剣道の研究もいっぱいした。‬

一日のほどんどがまじで、いやまじで剣道だった。


しかし、これと言って《自信》がついた気がしなかった。‬引き分けが多いが勝ちきれないことが続いた。‬勝った試合も多かったけれどいつもそういう日はいつも決まってやり切った感じがしなかった。

そして常にもやもや〜っとしながら一年が経った。

 

4.気づいた《自信》の正体


‪そして高校三年の夏前、ある事に気付いた。‬


‪《自信》があるという状態ってのは「自分の弱いところをよく知ってる」ということなんじゃないか?更に言うならば、「そんな自分をいかに愛せるか」なんじゃないか?

つまり「自分の弱い部分を知り、それを愛せるか」

 

ということだった。

意味わからないよね?説明します。

 

 5.「人一倍練習すること」「誰よりも強いこと」→自信?

 

‪それまでのぼくは、自信がある状態とはずばり「人一倍練習をしてきた状態」「誰よりも強いこと」だと思い込んでいた。‬めちゃめちゃ練習する!それによって誰にも負けない!と実感する積み重ねが自信になるはずだと考えていた。

 

‪しかし、それは違った。

 

何が違うのか、それを気づかせてくれたのは、当時部長の一言だった。


「剣道を70年間続けてる人でさえ、剣道に関してわからないことがあって追求し続けてるのに高校生のおれらがこのたった三年でその域までいけるか?」

という一言だった。

 

どういうことかというと、

剣道は他のスポーツと違って対人競技であるが故に、何かを学べば、また何かを必死に習得すれば必ず成果が出る、みたいな単純な話ではないということだ。

例えば

筋力をつけたからといって必ずしも試合に勝てるわけじゃない。

スピードを上げても必ずしも試合に勝てるわけじゃない。

みたいな具合だ。

 

更に言えば、例え強さを追求したところで、「誰よりも強いこと」が自信になる人は、毎年1人しかいない(高校総体優勝者)。

 

つまり剣道における「強さ」っていうのは沢山の要素が絡み合ってるわけで、ステージをクリアでどんどん強くなるゲームのようにはいかないわけだし、更に強さに裏付けられた自信っていうものはほとんど存在しないんじゃないか、ということだった。

 

 

6. ぼくの思う《自信》とは。

 

剣道において《自信》を持つ、というのは何かを習得する為にたくさん努力をすることでも、負けないことでもなかった。

 

説明が少し難しいが、ぼくの思った本当の《自信》がある状態とは

「弱いところ」をしっかりと把握することで急所を突かれても対処ができ、且つ自分なりの戦法ができる状態、みたいな感じだった。

 

具体的にいうと(剣道をやってる人にしか通じないかもしれないが)、例えば、自分が攻め合い(簡単なところでいうと「一歩前へ出る」そのことで相手が受動的に動いたならば、もうそれが「攻めた」と考えて良いと思う。逆にいうと相手が動じなければ、それは攻めたとはならないのかなと考える、←これめっちゃ簡単な例ね、ほんとはもっと深い!笑笑)が苦手なので、相手に攻められ相手のペースに持ち込まれたらすーぐやられてしまうという弱さを持ってた場合、その弱さをしっかりと受け入れ、「じゃあ相手に先に攻められたらその前に距離を詰めて打たれないようにしてしまおう」と軽く対処してしまう、みたいな具合だ。

わざわざ相手が練りに練って攻めてきた苦手なフィールドで戦う必要がなかったりする。

 

そんなことを繰り返してると、本来ぼくが弱いはずの攻め合いにおいて、そのように弱さを知り対処ができるのであれば、自分が主導権を握ることができたりする。そして気づいたら自分のペースに持ち込むことだってできる。それが自分の強みにさえなったりする。


‪つまり、本当の《自信》を持つということは、弱さを知ることなんだと気付いた。そしてそこを理解して、許してそんな弱い自分を愛せるかどうか、だった。‬(もちろん克服するよう限界まで練習した上で、の話だけど)

 

7.就職活動においてもいえるんじゃね?

 

‪そして大学生になった。‬


‪高校の、しかも剣道界の中では想像ができないくらい、いろんな学生がいた。彼らは常に何かに打ち込み日々を過ごしている。‬

 

そして、‪ぼくは最近、また自信がなくなっていた。

 

なぜか。

 

それは就職活動があったからだ。


幸せなことに、‪僕の周りにはすごい大学生が溢れてる。

すでに大学で授業をしてる学生や、世界的なプロジェクトを回してる学生、社会的課題を解決しようもがいてる学生、海外で仕事をする学生、母語以外で仕事をしてる学生、ベンチャーを立ち上げた学生、ビジネスで地方創生をしてる学生、政府機関で日本を担う学生。‪(ここでいう「すごい」は、周りに大きな影響を与えているという意味で)‬‪自分には無い才能溢れんばかりのヤバいやつらがゴロゴロいる(自慢したい人ばかりだ)

 

しかし、就職活動をする中で、ハッシュタグを多く身につけてる学生と自分を比べてしまうと、自信がなくなってしまいそうになった。

 

 

「また同じことを繰り返していた」

と思った。

 

就職活動で勝ち組になりたいが為に、不安を払拭する為、得体の知れない以前のような自信をつけようと考えてしまっていた。その為に「とにかく努力をすること」「誰よりも凄い人になろう」と思ってしまっていた。

 

‪しかし、本当の《自信》とは自分の弱さを知り、受け入れること。愛すること。

自分は三カ国の言語なんて話せないし、フィリピンの労働環境を改善するためにアプリを開発できるノウハウもない。アフリカのインフラを整えるために現地で企業と連携する手段だってわからない。

 

でも自分のできない部分を受け入れ、理解し、そんな自分を愛することができれば、結果に満足できるようになる。自分なりの生き方を探すことができる。

 

8.でもなんかやっぱり人と比べたくなるよね〜。 

 

剣道と就職活動は競争という意味で、よく似ていた。だから剣道の思考を就職活動に当てはまることができた。

 

でもなんだかんだ、人は、自分の弱さを受け入れつつも、どこかで人と比べたくなる。

 

ぼくはそれは教育制度上しょうがないと思っている。他人に評価される他人軸の自己評価で生きてきたおかげで、人は評価を他人に委ねる。第三者が評価をするから、第三者が提示したルールに則り競争して勝った人が優等生となっていった背景がある。

そして優等生がもてはやされ、そうあるべきだとされてきた。もしかしたら比べることは、人間の本能的な部分によるものかもしれないが、ぼくはこの教育制度上必然の出来事だと考える。

 

9.これからの生き方

 

剣道や就職活動などの競争社会の中で生きてきて、

・他人と比べることで身につく自信(高校時悩んでたぼく)

・他人と比べず、自分の弱さを受け入れることで身についた《自信》

の二つがあった。

 

しかし、今時代はもう一つ重要な『自信』がある気がする。

 

それは、自分が存在しているということに対する『自信』だ。

 

この背景は今の時代が関係してるが、これは次回に回すとして、でも一言でいうと、

 

個々人がモチベーションを高く持つこととそれを実現するための創造性を持つことが義務である時代に、比較から生まれる自信なんてこれから少なくなっていくだろう、ということ。

 

10.まとめ

 

‪自分の知らない世界を知らないと言えること。‬

人間はどうしても誰かと比べたくなる生き物だってことをよくよく知っておくこと。

人と比べて持てる自信なんてコミュニティが変われば、変化するわけで、正直なんの役に立たないのに、そんな自信を持ちたいと思ってしまうこと。

 

‪こんな弱さを受け入れることで、自然と自分は楽になるし、自分の強みを活かせる気がした。‬

 

剣道という競争から生まれた、人と比べることで身につく自信ではなく自分の弱さを愛することで身につく《自信》を気づかせてくれた社会の構造でした。

 

おわり

 

PS.ちゃんと就職活動、内定もらってます。

 

今日思った事。

この感情を忘れたくないので、書きます。

 

今日、avicciiが亡くなったというニュースを見ました。

 

僕はEDMが特別好きということではないですが、この人の歌は凄く好きでした。

 

彼の歌の一節にこんな歌詞があります。

 

 

Life's a game made for everyone.

and love is the prize.

人生はみんなの為にあるゲームなんだ、そして愛は勲章さ。

-Wake me up 

 

この歌の全体の内容は、恐らく、夢に突き進む中で苦悩から逃げたくなるような想いと、それでも夢を実現させたいと強く願うという複雑な感情を抱いているように感じました。

 

夢に向かって突っ走っている中で、もちろん辛いことや思うように進まないことがあったはず。彼は投げやりに言い放つ一方で、それでも大人になって夢を叶えてから起こしてほしいと強く自分の将来を願ってる歌だなと思いました。

 

僕は、このような若者らしい苦悩や葛藤のような感情を聞いた時、めちゃめちゃ共感をしたのを覚えていす。

 

何故ならこの時期の僕も夢を叶えたいと思う一方で、平気でそれを否定する人や、笑ってくる人、傍観者なのにヤジを飛ばすような人たちに押し潰されそうになっていたからです。毎日悔しい思いも沢山しました。

 

 

そして、彼は言い放ちました。

 

人生はゲームさ、そんで愛は勲章なんだ。

 

 

僕はその時こう解釈しました。

人生はみんなの為に作られたゲームであり、そのいつ終わるかわからない人生っていうゲームは大いに楽しまなきゃ損だよな。否定をする人、笑ってくる人、ヤジを飛ばす人はその人なりのゲームの楽しみ方をしてるだけに過ぎないが、それが僕のゲームの進み方に何故影響されようか(されるはずがない)。僕は僕なりのゲームの楽しみ方があるはずだから。

そして、そうやって努力した人しか見えない景色っていうのが必ずあるんだ。

 

そう思うようになりました。

 

今も少しずつ努力を続けているけれども、理想とは程遠い。

だからまだまだ努力が必要だと思ってます。

 

この人生は僕の人生であり、何億通りという楽しみ方のひとつだと思ってます。

 

だから、常に自身に問い続けたいです。

今の人生は自分自身でコントローラー持ってるか?って。

そしていつ終わるかわからないゲームは大いに楽しんでるか?って。

 

 

最後に

この人生というゲームでは

自分自身を愛すること、自分がやっている事にいまは誇りが持てなくても、それを愛せる事。

これが唯一初めから持てる武器だと思ってます。

 

彼は常に音楽を愛していたし、彼自身が行なっている行動も愛していました。

僕は彼が若くして亡くなった事がとても悲しいけれども、ずっと心の中で生きています。

 

Rest In Peace Avicii.

教育の役割について②

 

前回は、「教育の果たすべき役割とは何か」という問いの導入を行なった。

そして、学校教育には二重の目的があることを述べた。

 

そして今回は珍しい視点で教育を考察したいと思う。


それは「はたして人は他人を教育できるのだろうか?」

 

という根本的な問いである。

 

僕はある書籍で上の問いを見たとき、すごく恐怖を感じたのを鮮明に覚えている。

 

何故ならぼくは教育学部にいて、人に何かを教えるプロフェッショナルな人間を輩出する学部にいるからである。

その、そもそもの根底を覆すような言葉だったからだ。

 

しかし、確かに言われてみればそうである。

人は他人を教育することは本当に可能なのだろうか。可能であると言うならば一体何に対する教育のことを言っているのか。そんな疑問を抱いた。


他人を教育するとは、本来、自分の利益となるように、他者を支援するということだ。

例えば、漁師が自分の利益を上げようとした時人手を増やすだけでなく雇ったその人を教育していく。雇う側は利益につながると思い教育を施すのだ。一方で雇われた側も教育を受けることで自分自身で漁をすることが可能になる。
それはつまり、win-winの考え方である。

しかし、教育は同時に一方的な関係性でもある。
それは教育者は常に被教育者に対して権威を持つということだ。


このとき、本当に互いに納得の行くwin-winが実現されるのは非常に難しい。

 

そもそも教育が他者を変容させるということは、一度覚えたら忘れることはなくどんどん新しいことを覚えられるという機械的な作用ではないし、それが被教育者にとって本当に望むものなのかは、被教育者本人にしか知らないのである。さらに言えば、被教育者本人も知らない可能性だってある。

 

結局のところ、全ての教育的な営みは教育者のお節介でしかないのである。

 

 

 

それでも人が教育したいと願い、されたいと思うのは、生物学的に根源的に、他者との繋がりを求めるからなのかもしれない。

 

だとすれば、教育者として持つべきものは、対象を承認し、認め、繋がりを保つことかもしれない。

例えどんなに「下手くそ」な教育しかできないとしても、他者を承認する、ということだけが最低限守るべきラインなのかもしれない。

 

「承認し合う」

 

実際に今の社会、現実がそうなっているかと言えば、わからない。


なぜなら、相手を承認するには自分を承認することがまず必要だが、そうさせてくれない環境が根深く絡みついているからだ。

 

しかし、だからこそ自分自身のあり方を考えていく必要がある。

 

 

どんな投資よりも教育に投資する方がよっぽど社会の為になると考えるのは、このように現代において、認め合う社会の必要性が感じられることと、根源的に他者と繋がるっていることが自己実現において非常に大切だと感じるからである。

 

おわり。