教育の役割について②
前回は、「教育の果たすべき役割とは何か」という問いの導入を行なった。
そして、学校教育には二重の目的があることを述べた。
そして今回は珍しい視点で教育を考察したいと思う。
それは「はたして人は他人を教育できるのだろうか?」
という根本的な問いである。
僕はある書籍で上の問いを見たとき、すごく恐怖を感じたのを鮮明に覚えている。
何故ならぼくは教育学部にいて、人に何かを教えるプロフェッショナルな人間を輩出する学部にいるからである。
その、そもそもの根底を覆すような言葉だったからだ。
しかし、確かに言われてみればそうである。
人は他人を教育することは本当に可能なのだろうか。可能であると言うならば一体何に対する教育のことを言っているのか。そんな疑問を抱いた。
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他人を教育するとは、本来、自分の利益となるように、他者を支援するということだ。
例えば、漁師が自分の利益を上げようとした時人手を増やすだけでなく雇ったその人を教育していく。雇う側は利益につながると思い教育を施すのだ。一方で雇われた側も教育を受けることで自分自身で漁をすることが可能になる。
それはつまり、win-winの考え方である。
しかし、教育は同時に一方的な関係性でもある。
それは教育者は常に被教育者に対して権威を持つということだ。
このとき、本当に互いに納得の行くwin-winが実現されるのは非常に難しい。
そもそも教育が他者を変容させるということは、一度覚えたら忘れることはなくどんどん新しいことを覚えられるという機械的な作用ではないし、それが被教育者にとって本当に望むものなのかは、被教育者本人にしか知らないのである。さらに言えば、被教育者本人も知らない可能性だってある。
結局のところ、全ての教育的な営みは教育者のお節介でしかないのである。
それでも人が教育したいと願い、されたいと思うのは、生物学的に根源的に、他者との繋がりを求めるからなのかもしれない。
だとすれば、教育者として持つべきものは、対象を承認し、認め、繋がりを保つことかもしれない。
例えどんなに「下手くそ」な教育しかできないとしても、他者を承認する、ということだけが最低限守るべきラインなのかもしれない。
「承認し合う」
実際に今の社会、現実がそうなっているかと言えば、わからない。
なぜなら、相手を承認するには自分を承認することがまず必要だが、そうさせてくれない環境が根深く絡みついているからだ。
しかし、だからこそ自分自身のあり方を考えていく必要がある。
どんな投資よりも教育に投資する方がよっぽど社会の為になると考えるのは、このように現代において、認め合う社会の必要性が感じられることと、根源的に他者と繋がるっていることが自己実現において非常に大切だと感じるからである。
おわり。
教育の役割について①導入
ぼくは、教育が最低限度に果たすべき役割とはなにかを考えている。
現在の学校教育では、様々なことが教育という枠組みの中で教育研究され、現場で実践されている。
しかし、多くのことは学外でも教えることができるとぼくは考えている。例えば、プログラミング教育や英語教育といったものは学外でも学べることができるのではないか。さらに言えば、物質的に豊かになった今の日本では、数学や漢字、その他食育などの知識も学外で学べるのではないだろうか。
そう考えると、次の問いが生まれる。
「学校でしか学べないものはなんだろう」
教育を考えるとき、大きな2つの視点がある。
1つは政治的・経済的・社会的に求められる教育の機能。
もう1つは自己実現などのための教育的機能。
そして両者の妥協点に、学校教育という営みがある。
教育とは、そもそも本質的に二重目的を持つものなのである。
まずここを理解しなくてはいけない。
さらに言うと、本来であれば、それをなおざりにして手段を考えることはできないはずである。
つまり、学校教育の目的は何かを理解した上で、僕たちはその手段である指導案をはじめとする諸々に向き合うべきなのである。
しかし、大学の授業では、特にうちの大学では「手段」としての教育方法論がほとんどである。
例えば、教育指導要領の文言に則って、指導案を作成し、指導案に対して先生からの赤修正をいただき、どの文言が反映されてないかを考えては修正し、誰でも情景がイメージしやすいように分かりやすい言葉で指導案を作成していく具合だ。これがほとんどなのである。
そして、教育の果たすべき役割とは何かを知らぬまま授業を受け、指導案が完璧にかけるように教育され、教授に褒められるような所謂クリエイティブな指導案を考えることが、自分にとって大事だと思うのであれば、それを進めればいい。そして、教員採用試験対策のために参考書を購入し、当たり障りのない文言を必死に覚えて、資格を取る為に○原などの面接対策を行い、教員になればいいのである。そこに学ぶ主体である「子ども」が置き去りにされてたとしても。。。
話を戻すと、
現在の社会の情勢を鑑みた上で、二重の目的を持つ学校教育において「子どもの為にいまの学校でしか学べないこと」とは一体何だろうか。
言い換えると、最低限学校教育が果たすべき役割とは何か。
次はそれをふかぼって行きたい。
次へ続く。
理想(ビジョン)から語る
多くの人は、理想から語りません。
目の前の現実を解決する手段を考えたがります。
でも違うと言いたい。
理想なくして、現実問題の課題解決なんてありえない。
ましてやチームで課題解決するのであれば、理想という目的を掲げなければ、そこに枝分かれする手段を取捨選択できるはずがないと思います、チームで。
目の前に出てくる問題は氷山の一角なんです。
その下には大きな問題がたくさん眠っている。
目に見える問題を解決してる間は、本質的な問いを探すことはできなくなると思います。
じゃあ本質的な問いを掘り起こす為には?
「理想を考える」
突然、
・リマインドが遅い理由は?
・タスクマネジメントができてない理由は?
・情報が整理できない理由は?
ではなく、
・四方良しである為には(顧客、従業員、世間、未来)どんな働き方をするべきか。(1つの理念)
→働く人、周りの人を幸せにするワークスタイル(理想)
じゃあその為に何を改善すべきなのか。
そして、それを軸に、枝分かれするのが
議論だと思います。
・リマインドが遅い理由は?
→周りの人に不安を持たせない(理想
→働く人の生活スタイルを崩さない(理想
👉で、現状は?
👉じゃあ課題解決は?
・タスクマネジメントができてない理由は?
1人の遅れは1000人の遅れを生む
→働く人の時間を奪わない
→周りの人に心配や不安を抱かせない
👉で、現状は?
👉じゃあ課題解決は?
・情報が整理できない理由は?
→正確な情報が届かず参加者を困らせない
→正確な情報を知らずに働く側のモチベを下げさせない
👉で、現状は?
👉じゃあ課題解決は?
などなどだと思います。
わがままであれ。
こんなこと書いていいのかなあと思いながらもつらつら書いてます。
「わがままでいてね」
事あるごとに思い出す言葉です。
友人の言葉
亡くなった僕の友人から最後にもらった言葉です。約二ヶ月前、若くしてガンで亡くなりました。とても笑顔が独特で、でもそんな笑顔がとても素敵で、知的で、ユーモア溢れる素敵な女性でした。ぼくが現地のスタッフとしてインドにいて、インドから帰国する直前に出会った方でした。
これを知った僕は、教育実習直前でした。お見舞いも行きました。
そして今まで
何度も何度も泣きながら、その言葉の意味を考えながら生活してきました。
今やっと書き起こそうと思い立ったのでカキカキしてます。
でも、ついこの前まで
わがままでいるってなんだろうってずっと思ってました。
たまたまある日のこと。
当時、彼女とふたりでぼーっと海岸を眺めていた時の情景を思い出していたら
こう言いたかったのかもしれないなと考えるようになりました。
「自分らしく、この瞬間に生きてるということを噛み締めて」
と
その時の彼女は、もしかしたらすでにガンを患っていて、残り少ない人生を最大限に生きる為に、インドに来ていたのかもしれないなと考えるようになりました(実際は聞いてません)
何故かというと、その時の眼差しは海の果てのほうを遠く眺めているようで、いまこの瞬間の人生を最大限に記憶してるようだったから。
すごく心地よく風を感じて、海を眺めていました。
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僕は、わがままは言わないように育ってきました。
多くの方もそうかもしれない。
でも、わがままであることは、自分らしくあることに他ならないとも思います。
しかし、自分らしく生きることはとても難しいことです。
例えば大学に居たら、
教員を目指すのは当たり前、サークルに入るのが当たり前、部活に入るのが当たり前、コンパに行くのが当たり前、お酒でぶっ倒れるのが当たり前、変わらないメンバーで戯れるのが当たり前。
当たり前が多すぎて、ひとたび脱線した瞬間に少し変な人になる。
なんか特に、一年の時は、見えない圧力というか「すべき」オーラがすごかった。
あれしろ〜、これしろ〜、なんでやってないの?大学生なのに〜〜。
先輩の指示に全く従わなかった僕はずいぶんと嫌われてたんじゃないかなと思ってます。
ぼくは、
「自分らしく」あることは難しいことなんだけど、でも自分が自分らしくある為に、まずは周りに「自分らしく」あれることができる雰囲気が必要なんじゃないかなって思います。
それは、「迷惑な」循環を作ること。
迷惑をかけては、被り、みんなのやりたいことを少しずつ表に出していくことです。
自分らしく、わがままであることは、少なからず人に迷惑をかけます。
日本ではそれに対して、迷惑をかけてはいけませんよという教育がなされますが、それは少し違うと思いました。
つまり、
迷惑をかけないように生きる選択をするのではなくて、迷惑をかけて当たり前という姿勢を持つこと(インドっぽい)が必要だと。
そして、自分が迷惑を被っても許せる(何故なら自分も迷惑をかけてきたから)環境、心持ちが僕には大切なんだろうと思いました。
僕自身もいまは相手に対しては常にそんなスタンスです。
僕も迷惑らしきことを被ることは散々ありますが、怒ったことは一度もありません、てか怒る気がさらさらありません。
最後に書きたい事は、
これからは、もっともっと自分らしく、今の人生を悔いなく過ごしたいということだけです。
その為のスタンスは続けて行きながら、自分らしさをより際立たせて行きたいです。
迷惑をかけてかけられて、自分のやりたいことを想い想いにやらたら、それでいいと思います。
そして、関わってくれてるみなさんは、これからも僕にわがままな迷惑をかけてください。
とことんわがままな迷惑をかけて、悔いなく利用しまくってください。
友人に感謝しながら。
おわり。
教育学部にいるとは。
教育ってすげーよ。
って思ってます。
昨日は見えなかった視点に今日は立つことができる。そして世界がガラッと変わって見える。
そんな驚きや感動を与えてくれるからです。
更にそこへ教育者としての視点を添えると、、。
日本はいま課題先進国である。
その為、解決しなければいけない問題が山積みです。
それを解決するのは
システムでも、エンジニアリングでもなく、正直「教育」しかないと思っています。教育なくして社会は持続的には発展しません。
それだけ意義のあるものだと感じます。
個人個人が、我ごととして問題を捉え、隣人の問題、友人の問題、組織の問題、地域の問題、県の問題、国の問題、世界の問題に取り組む姿勢を育てなきゃ今後のウン千年の持続可能な社会は実現できないんです。
「教育」というのはそれだけやり甲斐のある、しかし骨の折れるような仕事です。
では、課題を解決できる人材を育てるべく、教員として、教育方法という面でプロフェッショナルになるべきか?
それだけでは、ダメだと思います。
ぼくは教員が複眼的に社会や教育を見ることができる視点が不可欠だと思ってます。
複眼的とは、
いろいろな角度・立場から物事を見るさま。 「 -な思考」
のことを言います。
組織づくりを通じて、人に問題を問題として捉えてもらうには、全体像を見せなければいけないと感じました。そこでの内発的な動機が人のエネルギーになるからです。
つまりは、教員は、現行の教育が行われる時、その背景、その全体像を社会の構造や仕組み、役割など、全体を俯瞰することで、理解する作業が必要です。
学びと教育
行政と教育
法と教育
企業と教育
家庭と教育
市民(個人)と教育
教育問題と教育
世界と教育
このように、社会と分断されがちな教育は実は至る所とつながりがあります。
しかし、このような観点から複眼的に教育を考えられる学生はほとんどいません。僕も含め。しっかりと根拠立てて語れる人は教授でも一握りでしょう。
ここまでで伝えたかったのは、
・教育の意義を知っていること
・教育と社会を分断しないよう複眼的に物事を捉えられる視点を持つこと
が教員には必要だということです。
しかし、もはや学校教育が担える役割もキャパシティがオーバーになってきてます。
であれば、今後の公教育はどうなるでしょうか。もしかしたら、民間で教育を代替する時代もくるかもしれません。わからないですが。
まぁ、
色んな話が上がるとは思いますが、
今回はテーマ
「教育学部にいるとは」
ということで
結論!!!!
「教育を学ぶとは社会を学ぶこと」
教育学部にいるということは、社会についてよく知ること。
これに尽きます!
やや文章がテキトーなのはごめんなさい、目的がなく、感じたことをそのまま表現してしまいました。
おわり、
実家を想う
あーい、たくでふ。
むかーしから静岡の山奥に住んでいて気にも留めなかった夜空を、この歳になって初めて撮影してみた。📸canoneoskissx7
小学生の頃は夜に出歩くことはなかったし
中学校の頃は部活に明け暮れて夜空に何か思うこともなかった。
高校の頃は毎日部活の疲労で見上げる時間もなかった。
高校2年からは親元を離れて田舎から少し都会へ出てった。
そして大学生になり愛知へ下宿してる。
自分が生まれてきた環境は時として憎くなることがある。
逃げたくなることもある。
他人と比較して悔しくなったり、恥ずかしくなったりするからだ。
でも、今は違うと言える。
自分の生まれてきたこの環境は、オンリーワンでナンバーワンだ。
おわる