非合理な理想を求める為の合理的思考
あーい、たくでふ。
「100万あったら寄付しますか?それとも自分のために使いますか?」
人は、この質問に対していろんなことを思考すると思います。
でも一方で、同じ選択でも、一日の中にある選択は、あまり思考しません。起きる起きない、食べる食べない、そうじするしない、、、。
それは習慣化してるからです。
脳の容量を抑えるため、思考を抜きにして決断をしていくことがあります。
ここで何をいいたいのかというと、習慣化などの例外を除いて、人間の選択には、必ずその背景に思考があります。そして更に付け加えるなら、それはある程度合理的に行われています。
そして、その「合理」とは過去の自分の経験です。
例えば、簡単なところだと、過去に怪我をしていかなくなった場所は、現在、無意識に過去の経験値で判断し、そこは危険だと察したりします。
なので過去はとても重要です。
だから就活中自己分析をするとき、自分の過去を振り返るわけです。
ほとんどの人は、まずはグーグル先生に聞いてみて「将来の夢」とか「自己分析」とかを検索し、自己啓発本を読み漁り、自己分析をしたり、人生設計してみたり、時には自分の長所短所を聞きに人に会いに行ったりもしています。そしてそこから新しい自分に気づき、つい嬉しく思ったりもします。
「昔から自分はこうだったから、これが向いている」「これをする時に喜びを感じる」様々な型にはまったような決まり文句が思いつきます。
これ自体はちゃんと意味のあることだと感じます。
でも
これが全てではなあと思います。
過去から導き出された合理的な選択は、非合理的なぶっとんだ理想を追い求めるために必要な要素。ただそれだけです。
ぼくは自己分析とはそんな具合だと捉えています。
考えが変わったら更新します。
おわひ。