空きコマの暇つぶし

なんでも問います、書きます

受動的であることは大事よ?

 

「あなたがやりたいことはなんですか?」

 

こんな言葉をよく聞く。

就活でも、イベントでも、講演会でも、自己啓発系のワイワイ系の本でもなんでも。

そして、やりたいことをやることが自由だー!なんて言っちゃってる。

 

「アクティブラーニング(主体的て対話的で深い学び)が必要だ」

 

こんな言葉もよく聞く。

教育業界の人たちは「やることを自分で決めさせる(orやりたいことをやらせること)で意志決定能力がつくんだ」とか言っちゃってる。

 

上の人たちの言い分はこうだ。

・やりたいことをやれば、自由らしい

・やりたいを自分で決めれば、意志決定能力が上がるらしい(つまり主体的になれる?)

 

 

本当にそうですか?と言いたい。

 

 

そもそも自由とは

選択における自由の意味が分かりやすいんだけど、aとbの選択肢がありそれを自由に選べることが「自由」なのではなく、新しくcという選択肢を作ることができることが自由なんだと思う。

つまり、自分が無意識的につくっている制約や条件づけ、思考の枠を取っ払って、世界を拡げていくことで初めて得られるものだと考える。

だとすると、やりたいことをやってる人間は、やりたいことしかやれなくなることで、どんどん狭い世界に行くことになり自然と不自由になるのではないか。

 

では、「やりたくないこともやればいいのか」というと、そういうわけじゃなくて、もっと柔軟にいけばいいんじゃないの?って思う。

人間は、二元論的な構図を理解すると呑み込みやすい一方で、思考が停止するから柔軟にその時その時考えればいい。

 

 

 

そして、2つ目の「やることを自分で決めていけば意志決定能力が上がる」は本当にそうなのだろうか?

上の話を繰り返すなら、やることを自分で決めてしまうことは、どんどん自分の世界を狭くしてしまってることにはならないか?と思う。やりたいことを自分で決めていくことだけが意志決定なのだとしたら、その能力は養われるかもしれないが、意志決定していった先が世界を狭くすることなのだとしたら、それは世の中を生きづらくするだけだ。

 

一方、意志決定能力が、思考の枠を取っ払って、世界を拡げ、その上で議論をし、意志決定をする能力なのだとしたら

僕が思うのは

「自分で決めることが重要なのではなく、自分達で決めていくことが重要だ」

ということだ。

人は1人で生きてきたわけじゃない。必ず他者の存在があなたに影響を与えている。

もし後者のいう意志決定能力を養うのであれば、また本当の自由を求めるのであれば、自分だけで判断する力に加え、他者からの判断に対して柔軟に取り込む力も必要だと思う。つまり受動的になることも必要だということだ。

 

 

最後に。

 

教育界隈ではアクティブラーニングがよく言われている。しかし、同時に言葉ばかりが先行していると危機感も感じる。

「能動的な学習が良い」と感じることは非常に大切だが、ついそちらに目がいき過ぎると「受動的な学習が良くない」という二元論的な構図にしてしまいがちである。

 

でも受動的な学習ができることで、自分の視野が広がっていく側面もあるはずだ。

 

他者の存在が必要なように、受動的になることは決して悪いことじゃない。

 

尊敬するとある先生に影響され、今日はこれを書いてみようと思った。

終わりー